宮城?仙台とのかかわり

静岡に生まれ、東京に自宅兼工房をもった芹沢銈介にとって、宮城?仙台との繋がりは、年を追うごとに深まり、その生活に離れがたく結びついていました。
芹沢が初めて東北を訪ねたのは昭和6(1931)年のようで、その目的は、当時熱心に収集していた小絵馬を求めてのことでした。八戸(青森)に向かい、南部小絵馬の調査?収集を行なっています。その後、昭和16(1941)年には新庄(山形)へ、昭和19(1944)年には角館(秋田)を訪問。民藝運動の一員として、地元の藁工品や樺細工の意匠指導を行いました。こうした東北への旅の途中、各地で目にした風物や手工芸品は、芹沢を大いに刺激し、《東北窯めぐり六曲屏風》や《東北笠文着物》、《ばんどり図屏風》の制作へと繋がりました。
《東北窯めぐり六曲屏風》は、東北地方を中心とする窯場がモチーフで、絵皿風の円形模様が配されています。登場するのは、岩手県の久慈、秋田県の楢岡、山形県の小菅、成島、平清水、新庄東山、宮城県の堤、栃木県の益子。これら8か所の風景が藍色で染められ、そこで働く工人の姿もまた朱や黄土色で染められています。

芹沢銈介作《東北窯めぐり六曲屏風》 絹本型絵染 1943年

後年は、次女が宮城へ嫁ぎ、また長男が仕事で仙台に移り住んだことで、来仙する機会が増えていきました。縁戚との再会を喜ぶ側ら、骨董店巡りも楽しみ、定禅寺通りや青葉通りの欅並木を好んで歩いたといいます。また、次女が経営していた「甘味ところ むらや」(青葉区一番町)では、看板デザインを手がけており、店内は芹沢の額絵やのれんで彩られていました。
晩年の紀行絵本『盛岡へ三度』『水沢から鬼首』には東鳴子や鬼首で過ごす様子が描かれており、温泉での静養も旅の目的のひとつだったようです。この頃の芹沢は、自らが陳列の指揮を執り、毎年のように大規模な展覧会を開催する多忙さでした。束の間の休息で、心を和ませていたのでしょう。「仙台にも陳列館を」と望むほど、この地で過ごす時間はかけがえのないものだったのです。

芹沢銈介デザイン「甘味ところ むらや」看板